子育ての練習。イタチ、猫

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つい駅舎から撮った、どうでもいい写真。
日が長くなってきた。


元来ぼくは気が短かく、すぐにイラっとするし、わりと手も出るし、暴言も吐く人間だったのだ。

家族や友人など身近な人々に対して、冷酷というか、残酷というか、横暴というか、そういうひどい対応をしてしまったことが実に何度もあった。
まあ世間知らずだったということかもしれないけれど。

だから本来ぼくは、子どもを育てるのにあまり向いていない人間なんだと思うけど、実際は、毎日子どものオムツを替えて、保育園の送り迎えをして、ご飯を食べさせて、風呂に入れている。
嫁のおっぱいを飲んでも眠れないようなら、寝るまでだっこしたりもする。

保育園の先生に「イクメンですね」と言われて苦笑いしたりしている。

そういう生活に馴染んでいることが自分でも不思議な気がするし、若い頃のぼくを知っている人からしたら、意外だと思ってびっくりするかもしれない。

当然歳をとったぶんだけ、自制が効くようになったというのもあるだろう。
10年前の自分だったら、自分の時間が全て子育てに奪われるような生活に、たぶん耐えられなかったんじゃないだろうか。


でも本当の理由は、誤解を恐れずいうならば、実はペットを世話した経験が効いているんじゃないかと思っている。「ペットを飼うのも、子どもを育てるのも同じだ」なんていうつもりはないけど、共通する部分はとても多いんじゃないだろうか。

「話しても分からない」相手の世話をすること

実家にいた頃に飼っていた犬なんかは別として(正確には親が飼っている犬だから)、自分の意思と責任で飼った初めてのペットは、二匹のフェレットだった。(要するに毛の長いイタチですね。)

フェレットは都会で飼うには手頃なサイズで、陽気で遊び好き、人懐っこい、鳴かないという素晴らしい動物なのだが、当然話して通じる相手ではない。見たらわかると思うが、イタチの頭なんてゴルフボールよりちょっと大きいくらいのものなので、脳みそなんてちょっぴりしかないのだ。

だからしつけなんて最初から諦めて、イタチの本能に寄り添うようにして世話をしていくしかない。

その後飼ったのは、今も一緒に暮らしている猫二匹。
猫はけっこう頭が良くて、こちらの言っていることをだいたい理解しているような感じはするのだけど、理解することと、それに従うことは全く別であり、要するに全くいうことを聞かない。(まあ、猫としては正しい生き方だけど)

そういうふうに「話しても分からない」相手の世話をすることが、子どもの世話をする下準備になっていたんじゃないかと、これは真面目に思っているのです。